私は十勝に住んでいる医療関係者です。元々私はリベラルな人間を自認している人間でもともと行政にはあまり関心はありませんでした。私は人類社会を支配している最も普遍的な法則は市民の自由な活動こそが社会の発展、幸福、福祉の源であるとの観念を持っています。そして自由を保障するものは人権の尊重、法による支配であり、一定のルールを守ればどのような価値観に基づいて、いかなる目的で行動しても自由であるとの原則が確立してこそ自由は守られと考えています。そしてその法則を最もよく体現するものが民間の活動であると信じていました。民間は民間、行政は行政と考えていました。ただ数年前から地域の医療介護を全体として一体として地域で運営していく地域包括ケアシステムが始まり、ある程度行政にも関心を持たざる得なくなりました。当地の地方行政組織とのやり取りは私の想像をはるかに超えるものでそのことで自由についてそしてそれを保証するものとしての法に支配、人権の尊重について深く考えるようになりました。政治哲学的には近代的な自由意思の概念、その役割、その価値を体系的に説明してリベラリズムの政治思想の流れを作ったのはドイツのカントです。『ハーバード白熱教室で』有名になり時折日本のマスコミにも登場するハーバード大学の政治哲学の教授、マイケルサンデル教授はリベラル派という言葉とカント派という言葉を同義語として使っています。
各人の自由を他のすべての人々と共存せしめ得ることをよしとする法律に従って制定され、人間の最大の自由(最大の幸福ではない、幸福はおのずからこれに随伴するものであるから)を主眼とするような憲法は、少なくとも一個の必然的理念であり、この理念は憲法の制定に際してはもとより、およそ一切の法律の根底に存せねばならない。
「純粋理性批判」
大聖人が天下を治めるばあいは、民心を自由に解放して、彼らが自分で教化を成しとげ、風俗を改善させるようにさせるのです。彼らが悪い心をすべて一掃して、自分たちの志望をいっせいにおし進めるのは、ちょうど本性の自然にそうしているようで、しかも民衆にはそれがなぜそうなったのかわからないです
『荘子』
近代的な観念では自由は基本的人権の一部です。日本国憲法でも保障されている近代的な基本的人権の概念を確立したのは、イギリスのジョンロックと言われていますし彼は基本的人権を生命、自由、私有財産と定義しています。彼はドイツのカントと並ぶ近代を代表する政治哲学者であると言われていて特にアメリカを中心として近代国家の憲法に最も影響を与えた人物とされています。彼が確立した基本的人権は生命、自由、私有財産でそれは自然法に基づく自然権として人に与えられたものです。基本的人権とは人間が社会を形成する以前に存在する神の法、理性の法、自然の節理を体現したものとしての自然法が存在しそれに基ずく自然権として人に与えられたものです。ルールに従って自由に情報を集めたり、正しいと思うことを自由に主張するのは基本的人権としての自由の権利です。ロックは基本的人権は自然法によって与えられたものであり、不可侵にして不可譲であるといっています。自由を基本的人権としてみる時、人には他人の自由を侵すこともできないしまた自分の自由を放棄したり、自由を他のものと交換したり、取引したりすることは許されていないのです。ロックは基本的人権を放棄することは神、理性、自然の摂理に対する裏切り行為であると述べています。外から自由を放棄するような力が働いた場合、人間には状況によっては自らの自由を守るために戦う義務があるのと考えられています。しかし果たして私はその義務をはたしているのか?神と理性に従っているか?もしそうでないならそのような人生に何の価値があるか?こんな考えが時々頭をかすめます。同時に頭をかすめるのが葉隠れです。「武士道とは死ぬことと見つけたり」この言葉は前近代的な思想とは思いません。近代的な実践的な思想と必ずしも矛盾しないと思います。つまり生きることに意味があるときには精一杯生き、自らの命をかけることが意味のある時にはそれを実行するのである。実際はこれを字義通り実践するのは難しい。60才以上になると自分の人生の残りの時間を考えてしまいます。今まで自分の立場で可能な限り研鑽を積んできたつもりですがそうはいっても何か大きな業績を残していたわけではありません。この先残りの人生で何か意義のあることがどれほど出来るのかを考えていくと残りの人生を何か意義のあることに燃やし尽くしたいといった観念が頭に浮かんできます。私は自由こそが人類社会の最も普遍的な法則、神の法と信じています。そして同時にこれまでの体験からそれを阻害する要因や勢力、自由の敵と呼びうるものが大きな勢力として社会には存在するとも感じてきました。残りの人生でもちろん私の立場からの職業的研鑽に積むことはしなければなりませんがそれとともに神の法としての自由を広げるために、自由の敵と呼びうるものと戦いの中で(もちろん近代的法治国家におけるルールを守りながら)自分の残りの人生を燃やし尽すことは価値のあることではないか?そんな観念が頭から離れない今日、この頃です。私はこの世は一定の法則で動いていてこの世に起こること、この世に存在するもの全てが一定の法則に元ずく必然であり、必然である以上全ての出来事、存在に意味があり、無意味なことは何一つないと信じています。それゆえこの世のあらゆることに意味がある以上全ての出来事、存在に目的が想定されると信じています。私の存在、私の在り様、私の置かれた環境すべてに意味があり、私の人生にも目的があるはずです。
世界における一切のものの統一原理即ち理性の理念のうちで目的の原理が最も重要である。
「純粋理性批判」
世界における一切のものはなんらかの目的に役立つ、世界には何ひとつ無駄なものはない。
「純粋理性批判」
そこでもし判断力から根源的に発生する概念もしくは規則があり、それが自然における物の概念であるとするならば、その場合の自然は我々の判断力に適合する限りにおける自然でなければならないであろう、またそれが自然の性質の概念であるとするならば、その場合には自然の仕組みが我々の能力の、即ち与えられた特殊的[自然]法則をまだ与えられていないいっそう普遍的な法則のもとに包摂するところの能力に適合していると考るよりほかには理解し得ないような性質の概念でなければならないだろう。別言すれば、自然の合目的性という概念でなければならない、そして我々は、特殊を普遍のもとに含まれていると判定し、またこの特殊を自然の概念のもとに包摂し得るために必要な限りにおいて、自然を認識する我々の能力のためにこの[自然の合目的性という]概念を設定するのである。
「判断力批判」
我が内なる声は常にこうささやくのだ『お前は今まで生きてきてどんな意味のある行為をした。意味のある業績とよべるものなにかあるのか?もし少しでも意味のある人生を送りたいのなら、神の法としての自由のための戦いのうちにお前の命を燃やし尽くすべきではないか?それが成功するかどうかは問題ではないのではないか?』私にも愛する家族があり、そのことを一番に考えなければなりません。今すぐにその観念に100%従って行動できないような現実があり、そのような内なる声を抑え込みながら生きていますが毎日が必ずしも完全燃焼でなく、今一つ生きている実感がわかない時もあります。いつの日かわが内なる声に100%素直に従って心のままに生きられる日が来るのであろうか?その時が来たなら、葉隠の精神で生きたいものである。カントは言っています。『善意志は全き価値を持っている。その一部でも実現できれば、宝石のような価値を持つのである』
われわれの心根が正しくさえあれば、神がわれわれ自身の義の不足を、われわれに理解できない手段を用いても補足してくれるし、したがってわれわれは善への努力を怠ってはならない、という信仰では、神の協力という概念は全く適切であり、それどころか必要ですらある。
「単なる理性の限界内の宗教」「カント」
かってプロテスタントは人間が自由に活動して各々の能力を自由に発揮することがが世の中を発展させ、この世は完成に近づいていくと考えていた。そしてそのような合目的秩序の中に神の栄光があると考え、こうも言っていた『我、神の栄光のためにはいかなる犠牲も辞さず』と。この意識を最も強く持っていたのはピューリタンであったと言われているが世界の近現代史におけるプロテスタント、ピューリタンの役割の大きさを考えるとこの言葉は正しいように思える。(自由な能力の発揮ということの中には近代市民社会の一員として公共政策に関する議論に参加するような場合に自由な議論を通じて理性の能力を発揮することも含まれていると思われる。)
ジョンロックもこういっている『人間は唯一絶対なる神の被造物であり、彼が喜ぶ限りにおいて存在している』
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