①表現の自由
憲法は国民の基本的権利として表現の自由・言論の自由を保障しています。
一つの仮定として次のような微妙なケースを想定してみましょう。
A.ある分野の行政と関りをもつ個人が行政の行動と行政の配布している文書との間に大きな解離があると考え、行政との関りややり取りの中で行政に求めて得られた説明、行政の行動、行政が発行する様々な公文書の間に矛盾があると判断し、その説明を行った担当部署、担当者名を含めてオンラン上に事実関係、公文書を公表したようなケースを想定してみましょう。
そしてその行動が実名を公表された担当者を傷つけたしてその人に行政が何らかのペナルティを与えるといった非常に微妙なケースを想定してそれを私なりに法理論的に考察してみましょう。
(1)その人は個人として情報を公開したので『個人情報保護法』の適応は受けないものと考えられます。
(2)このケースの場合事実が公表されているので『誹謗中傷』には当たらないものと考えられます。
(3)個人名を公表するというのは確かに過激で公表された人間に不利益をもたらしたかもしれませんが、この場合『行政の透明性が確保されているのか?』『行政の説明責任は果たされているのか?』『行政は公正に運営されているのか?』という『公共の利益』にかかわる問題として事実が公表されているので例え個人名が出されていても名誉棄損には当たらないものと考えます。
結局非常に微妙ではありますが私の考察ではこの人のとった行動は憲法で保障された基本的人権としての『表現の自由を』逸脱しているという根拠は見当たりません。
よって行政はこの人が『表現の自由を』を行使したことに対してペナルティを与えたわけですから基本的人権の侵害を行ったことになると思われます。(ちなみに私には地方公務員法等の関連する法律を普通に読む限り公務員が傷ついたという理由でそれに対して懲罰として公権力を行使することが許されているとは読めません。)
B.その後行政が自らを守るためにその個人に対して今後行政を批判しないという内容の『誓約書』を提出するように口頭で求め、提出された誓約書を受理したようなケースを想定してみましょう。日本国憲法が国民の基本的人権として定めている『表現の自由』のなかには当然『言論の自由』『行政を批判する自由』も含まれているはずですからこの行政の行動は明白な憲法違反、人権侵害としか解釈できないように思えます。
(A.Bの項目に関してはたまたま法の専門家に相談する機会があり基本的には間違いないとのことだそうです。)
(その時知る権利に関することとして専門家に参考までに聞いたことですが行政が情報公開請求に対して請求された資料が存在しないと回答していて後そにの資料が実際は存在したことが明確になったような場合は告発の対象となるとのことです。)
近代的な観念では自由は基本的人権の一部です。近代的な基本的人権の概念を確立したのは、イギリスのジョンロックと言われていますし彼は基本的人権を生命、自由、私有財産と定義しています。彼はドイツのカントと並ぶ近代を代表する政治哲学者であると言われていて特にアメリカを中心として近代国家の憲法に最も影響を与えた人物とされています。彼が確立した基本的人権は生命、自由、私有財産でそれは自然法に基づく自然権として人に与えられたものと考えられています。基本的人権とは人間が社会を形成する以前に存在する神の法、理性の法、自然の節理を体現した自然法に基ずく自然権として人に与えられたものです。ルールに従って自由に情報を集めたり、正しいと思うことを自由に主張するのは基本的人権としての自由の権利です。ロックは基本的人権は自然法によって与えられたものであり、不可侵にして不可譲であるといっています。自由を基本的人権としてみる時、人には他人の自由を侵すこともできないし(不可侵)、また自分の自由を放棄したり、取引したりすることは許されていないのである (不可譲)。基本的人権を放棄することは神、理性、自然の摂理に対する裏切り行為であるとロックは述べています。
ハーバード白熱教室4
外から自由を放棄するような力が働いた場合、人間には状況によっては自らの自由を守るために戦う義務があるのです。もし神の法の存在とそれに基づく法と秩序の存在を信じる市民がいて彼が基本的権利としての自由の権利を侵害されたような場合、彼自身は結果に関わりなく人権侵害者と全身全霊で戦いたいと望むかもしれない(市民とし守るべきルールを守ったうえで)。現実世界では例えば彼の妻のような家族(女性にしばしばみられるように夫よりはるかに現実的で)が彼自身と彼の家族が置かれた客観的な状況を把握したうえで彼の行動がもたらす利害得失を客観的に分析して彼に行動を慎むように説得するかもしれない。このようなことは現実社会においては往々にして起こることであろう。しかし彼はこのような状況にいつまでも甘んじていられるだろうか?彼の価値観では神=理性に背いて生きるような人生には何ら生きる価値を見出すことができないし、人は自分自身が無価値と信じるような人生を生き抜くことは困難なことなので彼は状況とタイミングを選んで神から与えられた義務の完全履行を目指すかもしれない。彼の価値観ではこれ以外の選択肢はないのかもしれない。
『人間は、彼自身の立法ではあるが、しかし普遍的であるような立法のみに服従するものであるということ、また彼自身の意思ではあるが、自然の目的に従って普遍的に立法する意思のままに行動するよりほかはない。「カント」「道徳形而上学原論」』
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