③自由な議論はシステムとして機能しているか?

③自由な議論はシステムとして機能しているか?という問題は①民主主義はシステムとして機能しているか?②多様性原理はシステムとして機能しているか?という問題とも密接に関連した問題だがもう一つ考えなければならないのは自由な議論は伝統的な”和”の概念と相いれるのかという問題である。人々が排他的で自分と違う意見、違う価値観の人間とは調和することができないと考え、同じ意見や価値観の人々の間だけで調和を実現したいと望み、それを”和”と呼ぶとしたなら、そんな排他的で前近代的な”和”に存在価値があるとは思えない。 人々が他人が自分とは違う価値観、意見を持つ権利があるし、たとえそうであっても人間として彼らを尊重し調和しなければならないという観念に立って築かれる”和”こそが近代的で開放的で存在価値がある観念のように思える。それは自分と異なる相手に対して次のようなセリフを述べた後に築かれるような和である『君の意見には賛成できない、しかし君が私と違う意見を持ち、その意見を自由に表明する権利は全力で守ろう』

近代社会において自由な議論はいかなる機能を果たすべきか?自由な議論は多様な人々の意見を集約する機能を果たすべきである。世の中の人々が発する意見が全ていい意見とは限らない、下らないと思える意見も多いように見える。良い意見と悪い意見の違いは?感情に基づく意見が有意義なものであることは少ない。様々な意見の中には、嫉妬、自己の利益、感情そういったものに左右された意見も多い。人々の意見、有意義な意見を集約していくためには基本的に議論には基本的な民主主義的ルールが必要である。可能な限り感情や特定の立場、特定の利益を排して理性的な議論、理性的な論理の展開によって可能な限り理性的に意見を集約していくことである。古代ギリシアの時代から論議されてきたように言葉の持つ最も重要な本質、論理を展開する能力としてのロゴスの能力を集約することである。民主主義社会においては意見の対立が生じたしたとき、当然当事者は自分の主張がが正しいこと、相手の主張に欠点があることを互いに冷静に主張しあうことになる。そしてそれを説得力を持って合理的な論理を展開した方の主張がより支持得られるならば議論は人々の意見を論理的に集約するという有意義な機能を果たすことができるはずである。

現実的には完全に感情的なもの、傾向性を排除して議論を進めていくことは難しく議論において理性以外のものが紛れてくるのは多少は容認するしかない。なぜなら人間は理性的存在としては不完全であり、完全に理性的な議論をする能力を持っていないからである。そういう意味からいうと映画『12人の怒れる男たち』はある意味で民主的な議論の一つの手本になりうるものと思われる。

このアメリカ映画はかって名優ジェーン・フォンダが主役を演じたもので、ある裁判の評決下すための12人の陪審員を描いた映画である。裁判はある尊属殺人に関する裁判でその評決を下すために集まった12人の議論が描かれている。ある少年が父親を殺害したとの罪の疑いで裁判が行われ裁判陪審員が評決を下すのみとの段階になった。少年の罪を証明すると思われる証拠や隣人の証言が十分すぎるほど揃っていて11人の陪審員は被告の有罪を疑っていなかった。ただ一人ジェーン・フォンダが演じる主人公のみがあまりに被告の有罪を示す証言が揃いすぎていることに疑問を呈して人の命がかかった問題だからもう少し議論しようと提案する。(アメリカでは第一級殺人は死刑。)他の人は彼の提案に対して最初怪訝に思うが一応議論することを受け入れて議論を始める。そこで徐々に議論が白熱し次第に被告の有罪に疑義を唱える意見が多数派になって最終的にnot guiltyとの評決となるのである。

この過程では冷静で理性的な議論ばかりではなく感情的で偏見に満ちた意見や議論も出てきて

陪審員それぞれの性格的な偏向、普段の社会生活の置かれた状況からくる感情性向、性格、偏見

やそういったものから生ずる陪審員同士の衝突が物語的に描かれている。一見12人感情的な動きを描いているようでこの映画で一貫して描かれているのは民主主義のルールの順守である。人間は理性的になり切れない存在なので議論の過程で感情、偏見やそういったものから生じる軋轢を議論から除ききることはできないが最終的には民主主義のルール、自由な議論のルールに従って最終決定が行われることが重要なのである。陪審員の一人がこう言っている。『評決を下すために見ず知らずの市民が集まってここで議論しているこれがこの国の(民主主義の)強さだ』と

『自由な議論が近代社会で果たすべき役割』

世間の人の中には自分の意見に反対意見が出たり、自分の行動について質問されたりすると

(ケチをつけられてと感じているのか)感情的に反応するように見受けられる人もいるが

そのような非理性的な虚栄心を排して冷静に考察していくと自由な議論が果たすべき役割と呼ぶべきものが見えてくるように思える。近代社会においては人々の考えが集約され世論を形成し、それが社会の中で大きな役割を果たすわけだが、自由な議論を通じて人々の考えを整理することは大事な機能のように思える。そのような整理の中で最も重要なものはいわゆる自動思考の是正にあると思われる。人間は本当は合理的な根拠もなく、自動的にもの事を信じていることが多いのである。私の体験を話すと役場の人間もまじえた会議の席で、役場の人間が”このことは他町村の動きも注視していく必要がある。”と発言したので私は”他町村の動きを注視することにどんなメリットがあるのか?”と質問したところ”それは議員が言っていることで自分の言っていることではない。”とごまかす様な返答をしたが、たぶん他町村の動きを注視することは良いことなのだとの自動的なただの思い込みで発言したのだろう。彼は自分が思い込みで発言したことに気づいてもう一度自分の考えを整理したうえで再度自分の考えを述べるべきだった。自分が今まで当たり前のように正しいと思っていたり、間違っていると思っていたことに理詰めの議論を通じて合理的根拠がないと判明すると人は精神的に混乱するがその混乱こそが人間の精神や社会に健全な刺激を与え、社会の健全な発展を促すものであり、マイケル・サンデル教授のいう(理性の不安)なのである。サンデル教授はハーバード白熱教室を始める際、学生に『この授業の目的は”学生に理性の不安を植え付けてそれがどこへ行くか見ることである。』と言った。またこの授業は教授の『もし君たちが”何年も先も理性の不安に苛まれているとすれば、我々は共に大きな仕事を成し遂げたということだ』との発言と学生のスタンディングオベーションで締めくくられる。理性の不安を避けようとすることは精神的怠惰ではないだろうか?

ハーバード白熱教室 1 17m-28m

ハーバード白熱教室 12 43m-58m

地方行政と私(構築中)

東十勝地方のある医療人が地方行政組織と想像を絶するような信じがたい不合理な【私の立場から見て】経験をしました。その医療人がこのサイトを管理していましたが時間と、労力の余裕がなくなりました。それで代わって私がそのサイトを管理するようになりました。その際以前の管理者からその体験を聞き、十分な資料(公開資料)を譲り受けました。このサイトの内容に関しては今後以前の医療人には責任はありません。

0コメント

  • 1000 / 1000